「循環」

上手くいかなくてイライラする。

そんな日もある。

それともそんな事は日常茶飯事?

仕事が上手くいかなくてイライラ(-。-#

仲間に八つ当たりする。

協力を得られず自分の抱える仕事が増える。

仕事が上手くいかなくて・・・

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「外側」が変わるのを待つ?

仲間?会社?いつになったら「変わる」のか分からない。

ひょっとしたら・・「永遠」に変わらないかもよ。

私は大きな事は出来ない。

だから、小さなことを「与える側」になろうとしている。

出来る範囲で。

仲間を「手伝ってやっている」からただ「与える」。

「与える」だけだから「見返り」は求めない。

ただ、「与える」だけ。

できる範囲で。自分がオーバーワークにならない程度に。

でも、それは・・

私にとってはとても難しい事だった。

どうしたって、「見返り」を求めてしまうから。

ましてや仕事だし。

それでも、とにかく「自分の出来る範囲」で与えてみた。

本当は自分が「与えて欲しい」という本音があっても。

「ここまでしてやっているのに・・」という気持ちも生まれた。

「こんな事も出来ないのか・・」という感情も芽生えた。

それでも、その「気持ち」を受け止めながら「与えてみた」。

結果は・・目に見える報酬はありません。

「外側」からみたらきっと、こう言うと思う。↓

特に変わった点は見られなかった。(笑)

でも、「内側」の私は感じている事がある。

心のブレる幅が小さく感じる。

「やってやっている」「こんな事も・・」と思って自分がイライラしたりするブレ幅が以前より「小さい」。

無いわけではない。

だけど、

ちょっと立ち止まって考えて見よう。

「どちらにしても」手伝う必要がある事。

それを「イライラ」しながらやるのか「無」でやるのか。

「与える」は見返りを求めないので「無」。

感謝されたら「超ラッキー」くらい。

最初はとても辛かった。苦しかった。虚しかった。

一か月くらい経った今、思う事は・・以前よりは気持ちのブレ幅が小さくなったこと。

ま・と・め。

自分の出来る範囲で「与えて」みると違った景色が見えるよ。

「協力」

普段、色んな人と「協力」をして生きています。

仕事、生活、ほぼ全ての事柄。

「協力」とは何だろう?

自分だけではなく「相手」の利益も考える事・・

だと思う。

利益は、お金だったり時間だったり気持ちだったりそれぞれだけど。

私があなたの上司だったとして・・

「俺、一万円、あなた0円。協力していこうぜ!」

「俺、もう帰る。あなた22時まで。協力してね」

「あなた(私)上司なんだから部下の私(あなた)に協力して助けてください・・これが欲しい、あれが欲しい、こうしてくれ、ああしてくれ」

お互い間違っている。

これは「強制」じゃない?

「与える」

「ウィザードリィ」というゲームがあります。

昔のゲームですけど。

「エナジードレイン」という敵が使う技があります。

それをくらうとキャラクターのレベルが下がります。

恐ろしいのがキャラクターのレベル以上のエナジードレインをくらうと、そのキャラクターはロストします。

普段の生活の中で嫌な事はあります。

暗いニュースを見たり。

不平不満を聞いたり。

自分でも言ってしまったり。

そんな中、「自分のエネルギーが吸い取られている」・・と感じる時がある。

そんな時・・ほんの少しだけでも・・

「何かを誰かに与えてみる」

「何か」は何でもいい。

「誰か」は誰でもいい。

家族、友人、恋人、もしくは自分でも。

大きな事ではなくていい。

「何か」は・・例えば「ありがとう」と言ってみる。

寝る時に「今日もありがとう」と。

「誰か」は・・例えば自分。

掃除をする。それはある意味「自分」に対し綺麗な空間を与えている・・とも考えられないだろうか・・こじつけだけど。

生活している中ではどうしたって「エナジードレイン」を喰らってしまう時がある。

そんな時、些細な事でも「与えてみる」

「与える」と不思議とよいエネルギーが生まれる。

そんな事を考え、コマイをかじりながらビールを飲む。

ちょうだい×3

欲しい物は沢山ある。

「物」でも「気持ち」でも。

「ちょうだい」

一回で足りなければ、二回、三回・・手に入るかもしれない。

「くれるかも」しれない。

「得」しているように思える。

「言えば」周りが「くれる」のだから。

・・・

「失っているよ?」

とても「大切」なもの。

「だけ」

今日は濁点が(゛)が付いています。

「○○してるだけ」

なんて、投げやり気味に言う時がある。

そんな時は大抵、落ち込んでいる時だ。

あなたにも、そんな「だけ」の日があると思う。

私にもある。

あなたが落ち込んでいて「ただ、○○してるだけ」の

「だけ」が

私にとったらとんでもなく凄いことかも知れない。

「朝、起きて、電車に乗って買い物した・・「だけ」。

電車に乗る事が辛い人にとってはその「だけ」は凄い事だと思う。

「近所の人に、「おはようございます」と挨拶した・・「だけ」。

人と会話するのが苦手な人にとってはこれも凄い事。

え?

皆が普通にやっていることで「自慢」になんてならないって?

他人に自慢するため「だけ」に生きなくてもいいんじゃないかな。

仕事で疲れたので値段の高いチョコレートを買った。

「たい」

お金持ちになり「たい」。

モテモテになり「たい」。

成功し「たい」。

上手になり「たい」。

○○が欲しい「たい」。・・・

え?

おめで「たい」。

(-。-)

色々な「たい」がある。

「それ」に向かって行く姿は健全だと思う。

不安で考えこんでしまう・・そんな自分が嫌になるよりは。

「たい」はありが「たい」。

でも、

気を付けなければいけない事もある。

こうなり「たい」と思い目標に向かって行く。

ところが、中々上手くいかなかったりすると・・・

「自分本位」

になる。

これだけ頑張っているのだから認めない「相手」が悪い。

これだけ気を使っているのだから理解しない「周り」が悪い。

これだけ頑張っているのにモテモテにならないのはおかしい・・

うぉっほん!!

じゃ、「自分が全て悪いのか?」

この考えも間違いだと思う。

「結果がまだ出ていない」だけかもよ。

そんな事を考えながら曇り空の下、キコキコと自転車をこいだ。

「1000円」拾う。

今日は、身体の調子が悪かった。

まあ、これだけ暑ければ誰だって「調子が悪い」に決まっているさ・・などと一人、心の中で悪態を付いていました。

最寄りの駅に着き職場に向かう私。

前方を歩く男性。

その男性がポケットからスマホを出した時・・

「パサッ」と半分に折った1000円札が私の前方に落ちたではないか・・

ラッキー!!これで昼食代が浮く」・・

うぉっほん!!

いやいや(・_・;)

お札を拾い小走りで男性に近づき「落ちましたよ」と声を掛けました。

すると・・・

「thank you berry march]

私→「え!!そっち?」(英語の事)

(-。-)

思わぬ不意打ちを受け、嬉しいような恥ずかしいような中途半端な笑顔を相手に向けトイレに行きました。

まあ、よく考えたら悪い事はしていない。むしろ、良い事をしたはずだ。

最近、こんなちょっとした出来事が多い気がする。

感情的な夕方。

久しぶりに「怒りの感情」が出てしまった。

仕事上の「よくある事」と言えばそれまでだが私が我慢していた部分を無思慮に責められた気がして、おもわず血圧が上がってしまった。

仕事に限らず「やってみないとわからない」という事は多いはずだ。

例え上手くいかなくても「やってみると」苦労が少しだけでも実感できる。

だから、自分が「やったことがない」事に意見を言う時は気を付けている。

上司などに意見をする時は「私は携わった事が無いから詳細は分からないし立場上、言えない事もあるだろうけど、○○について説明はしてほしい」などと話をしたりする。

私には「出来ない事」が多い。

だからと言って好き放題、勝手な意見を言っていたら結局は自分が辛くなると思う。

そんな事があり嫌な気分だったので気晴らしに近くのコンビニにアイスを買いに行ったが自分が食べたいアイス(ガリガリ君)は売り切れていた。

皆、考える事は結構似ているのかも知れない。(-_-;)

レジで並んでいる時、見知らぬおばあさんがレジの近くで立っていた。

「まあ、暑くてバテたのだろう・・わかるよ」などと勝手に想像し私は会計を済ませた。

出入り口付近で突然その見知らぬおばあさんが私に向かって口を開いた・・

「タクシーを呼んでくれ」

・・私は一瞬、「ポカン」としてしまった。(-。-)

周りを見たがやっぱり私に向かって言っているらしい。

そうか・・一応確認しよう。

私→「おばあさんや、タクシー呼んでもいいのかい?」

おばあさん→「ああ、ええよ」

私→「・・そうか、間違いではないんだな」と思い登録しているタクシー会社に電話する。

タクシー会社→「はい、○○タクシーです」

私→「タクシーお願いします。○○町のコンビニです。」

タクシー会社→「〇✖さんですね?」(私の名前)

私→「・・違います」(笑)(・_・;)

私→「□□さんという方がいらっしゃるのでその方をお願いします。」

電話を切った後、店員のお姉さんに詳細を伝え店を後にした。

今日は特に何だか色々「暑かった」。

帰り道、タクシーがちゃんと来るか何となく心配していたが私が自宅に着く前にタクシーとすれ違ったので大丈夫だろう。

自宅に着きシャワーを浴び、買ってきたアイスを扇風機の風を受けながら食べた暑い日の夕方だった。

学校生活について。

私は学校が嫌いだった。

「○○だから嫌い」など強い信念があったわけではない。「何で嫌いなの?」と問われても明確な答えは自分でもわからない。

勉強は嫌いだった。出来なかったし。だから余計に学校が嫌いになったのかも知れない。

「数学性腹痛」「国語性頭痛」「小テスト性悪寒」「音楽性睡魔」・・・などとにかく嫌いだった。

ただ、これらは私自身の勉強不足が原因であり学校や教育が悪い訳ではない。

ただ、今、大人(オジサン)になっても理解できないことがある。

「遅刻をしてはいない」とか「忘れ物をしてはいけない」などは大人になって必要な事だろう。

いまの学校の校則がどういったものか詳細はわからないが、理解不能なものがいくつもあるだろう。

給食を残してははいけない。食べるまで帰ってはいけない。

「ん?」と大人になって特に思う。私も小学生のとき、居残り給食をした記憶がある。クラスは午後の掃除をするために机の上に椅子を上げてクラスの後ろに下げるなか、自分は食べたくもない給食をもって困っていた。しかも、埃がフワフワと踊っているではないか!!

こういった思いをした人は、私以外の多くの人が経験したことがあると思う。この「残しちゃダメ」運動。

食べ物を粗末にしてはいけない・・・という考えは私も同感である。しかし、本人が嫌いな物、もしくは体調不良でその日たまたま食べれなくても、この「運動」のせいで残すことは許されない。

ちょっと待って!!大人も残してますよ!!

しかもその理由は「嫌い」とか「アレルギー」とかではなくて・・

「お腹が空いていたから食べれると思ったけど満腹になったから」・・なんて。

ちょっとー!!どうなってるのー!!

大人は自分達が出来ないことを平然と子供達に押し付け「お前が悪い」と言い放つ。

私が今、小学生に戻っても「好き」にはなれないかもね。

家族への想い。

 もう、10年以上前だが父親が亡くなった。父親とは自分が中学の時、離婚してからは会っていない。亡くなる10年くらい前に、施設から「援助ができないか」と自宅に手紙が届いたが私は断った。父親は離婚する数年前から、生活費を入れなくなり、親や兄弟は大層苦労したそうだ。私はまだ、中学生というのと本来の馬鹿が祟り、毎日、ファミコンと鬼ごっこに興じていた。

特別な恨みはなかったが 葬式には行かなかった。

良い思い出もあった。釣り堀に行ったり家族でタクシーに乗りデパートに行きゲームや服を買ってもらい皆で食事をしたりなどの思い出もある。

特別感謝する事もなかった。

私は今の家族の事、新しく家族になった親戚の人達、その子供達が好きだ。

 何年一緒に暮らした、血が繋がっている、などの理由で好きになったり、嫌いになることは無い。付き合いのある友人の収入も学歴も知らない。どんな経歴であれ、自分に合わない人とは付き合いたくないものである。

「仲が良い」という事に越したことは無いとは思うが家族とはいえ画一的(かくいつてき→何もかも一様にそろえるさま)に決められる問題ではないと思う。

「いけない事」だとは思わない。